2004年8月17日火曜日

暗殺者(ロバート・ラドラム)

国際謀略小説と言えば、私はフォーサイスとこの人ラドラム、それにトム・クランシーを挙げます。

本書はラドラムの中でも代表作と言っていいでしょう。過去に二度映画化されています。一回目はリチャード・チェンバレン主演によるものでしたが(1988年)、小説のプロットをなぞっただけの冴えない作品でした。二回目はつい先頃、マット・デイモン主演で映画化されましたが(邦題「ボーン・アイデンティティ」2002年)、こちらの方はご存知の方も多いでしょう。主演が主演だけに映画としてなかなか面白く仕上がっていて楽しめました。

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物語は、国際的テロリスト、カルロスの消息を告げるふたつの報道記事からはじまります。

場面は変わって、暴風雨の地中海。船の上で争うふたりの男。ひとりが銃で頭を撃たれ、海に落ちます…。

翌朝、頭に重傷を負って漂流する男を通りがかりの漁船が救いあげ、村に住む飲んだくれの医者の下に運びこみます。かつては名医だったこの医者は、独力での大手術の果てに男の生命を救うのですが、目覚めた男はすべての記憶を失っていたのでした・・。

そこから自らを探す男の旅がはじまります。手がかりになるのは、彼の皮膚に埋め込まれた貸し金庫の暗唱番号。どうやらその貸し金庫はスイスの銀行にあるようです。

訪れる先々に立ちこめてくる暴力の濃いにおい。ヨーロッパ各地とニューヨークを舞台にしながら、女と金と暴力に彩られた物語が進行します。やがて背景に浮かび上がってくるカルロスの影・・・。断片的に甦る忌まわしい記憶と自らの真の姿へのしだいに高まる確信、それゆえの苦悩。そして終幕のどんでん返し。

こうして、凶暴きわまりないアクション劇と繊細このうえない心理劇の二本の糸が絡み合いながら、息もつかせぬうちに終幕に突きすすんでいくのがこの作品の醍醐味と言っていいでしょう。マット・デイモンの映画ではアクション劇の方に主眼が置かれていて、心理劇の方はばっさりとカットされていたのが残念でした(したがってどんでん返しもありません)。忠実にプロットをなぞった一作目が思い切りハズシていたことを思えば、映画としては正解なのでしょうけれど。


この本を読んで面白いと思われた方には、同じ主人公が活躍する続編「殺戮のオデッセイ」(原題「Bourne Supremacy」角川文庫)と続続編「最後の暗殺者」(原題「Bourne Ultimatum」角川文庫)があります。

ちなみに続編の方も同じマット・デイモンの主演による映画がすでに公開されていて、おそらく続続編も映画化されるものと思われます。

これら2作では心理劇の要素は影をひそめ、もっぱらアクションものとして楽しめるようになっています。本書同様心理劇の要素を楽しみたい向きには、同じ作者の「狂気のモザイク」(新潮文庫)もおすすめです。

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さて、アクションに重点を置いた続編よりも、私はもっぱら本作を何度も本棚から取り出し、読み返してみたくなるのですが、それは何故でしょうか?

終幕、事件を振り返りながら関係者たちが異口同音に「あれは狂気の沙汰だった」と述べるシーンがあります。「狂気の沙汰」。たしかにそうでしょう。誰もこんな境遇に投げ込まれたくはありません。しかし、その「狂気の沙汰」を生きた男の物語を読むことが、私にとって心地よいことでさえあるのが不思議です。

甦る記憶の断片。否応なしに彼を襲う肉体的暴力。彼を見つめる恐怖の眼差し。並はずれた身体能力。名前・・・。それらをつなげ1枚の絵を完成させる方法は幾通りもあるでしょう。最悪のつなげ方は男を破滅に導きます。最良のつなげ方は? どうつなげるのが正解なのでしょうか。


フロイトが無意識を発見し、フーコーが「人間の死」(人間は砂浜の砂のように消え去るであろう)を宣言してから、もはや自らのアイデンティティに確信を持つことは誰にもできなくなりました。「自分はいったい誰なのか」。その答えは自分自身ではなく、交差する他人の眼差しの中に、他人との関わりあいの束の中にしか存在しないとも言えます。むしろ「自分」とは、いくつもの視線、いくつもの関係をつなぎ合わせ、編集していくことを通じて絶えず「つくられる」ものなのかもしれません。

とすれば、この本の主人公が生きたのは私たちの人生そのものであるということができます。「他人に描かれ、引用されるものとしての自分」「世界を浮遊する記号としての自分」。不確定で絶えずかたちを変える自らの姿に翻弄される自分自身の物語を、私たちはそこに読むのです。この本の最後に明らかにされるすべての真相、それさえ男にとっては(私たちにとっては)「辻褄のあうひとつの説明」にすぎません。幾通りものつなげ方に正解はないのです。

私が何度もこの本を手にとってみたくなるのは、そのような人生をとにもかくにも生き抜いた男の姿に共感するからかもしれません。