2005年1月22日土曜日

存在の耐えられない軽さ(ミラン・クンデラ)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン・クンデラ 千野 栄一

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1988年のある日池袋を歩いていた私の目に、一瞬「存在の耐えられない軽さ」という文字が飛び込んできました。それが何かの啓示ででもあるかのように私は思わず足を止め、街路樹越しに今見えた文字を探し求めました。それは、道路の向こう岸のビルの壁面にありました。壁面いっぱいに懸けられた懸垂幕に、大きな文字でその啓示は書かれていたのでした。


猥雑な街の風景にまるで似つかわしくないその言葉が映画のタイトルであると知ったのは、それからしばらくしてこの映画が公開されることを雑誌で読んだときです。そんなわけで、何か特別な存在のようになってしまった3時間近いこの文芸大作を、私は結局映画館で2回、ビデオで1回観ることになったのでした。

1

原作はフランスに亡命したチェコ人作家ミラン・クンデラ。監督はフィリップ・カウフマン。演じるのは、ドンファンの外科医トマーシュにダニエル・デイ・ルイス、彼の妻となる田舎娘のテレザにジュリエット・ビノシュ、愛人の画家サビナにレナ・オリンという配役でした。

物語の舞台はチェコ、1968年のプラハの春を背景にストーリーは進行します。ちなみにプラハの春とは、チェコ共産党第一書記だったアレクサンドル・ドゥプチェクに主導された民主化・自由化の時代で、冷戦下の東ヨーロッパにおける季節はずれの雪解けのような時期だったと言えます。しかしそんな営みも、まもなく侵攻してきたワルシャワ条約機構軍の戦車によって踏みにじられ、ドゥプチェクら指導者が逮捕されてモスクワへ送られることによってわずか8ヶ月ほどであえなく終わったのでした(ちなみに1968年と言えば、日本では全共闘による大学紛争、フランスでは五月革命、チェコではプラハの春と、事情は違えど世界的にある種の「異議申し立て」が同時期的に起こった年でした)。


トマーシュは過去の離婚とそのあとに続くいがみあいの苦い経験もあって、特定の女性との固定的な関係を望まない男です。優秀な外科医である彼は、お得意の「服を脱いで」という、一種職権乱用とも言える殺し文句で幾人もの女性との関係を持っています。その中の一人に画家のサビナがいます。彼女はトマーシュがつきあった多くの女性の中で、最も彼の恋愛感を理解する女性でした。それは彼女もまた特定の男との固定的な関係を望まない女性だったからでしょう。

そんなトマーシュが、あるとき仕事で立ち寄った地方の町で出会ったのが、レストランで働く田舎娘のテレザでした。
プラハに帰ったトマーシュを追いかけて、やがてテレザがやってきます。重いスーツケースを抱えて。二度目に彼女がプラハにやってきたとき二人は同棲するようになり、やがて結婚します。どういうわけかトマーシュは大嫌いなはずの固定的な関係に、自ら足を踏み入れていたのでした。

2

しかし、結婚しても彼の女性遍歴が止まるわけではありませんでした。トマーシュは相変わらず女のところへ出かけて行き、テレザは毎晩悪夢にうなされるようになります。悪夢の理由を知らず心配したトマーシュは、テレザに仕事を探してくれるよう、サビナに頼みます。サビナが見つけてきてくれたのは、ある雑誌社の写真室の仕事でした。

仕事に通ううち、テレザは自分が写真に興味があることに気づきます。雑誌社の人たちも彼女の才能を認め、やがてテレザは写真室を出てカメラマンとして仕事をするようになっていました。

それでもテレザの悪夢はとまりません(トマーシュの女性遍歴がつづくかぎりそれは終わらないでしょう)。彼女はついに家を飛び出していきます。しかし通りに出た彼女が見たのは、地響きとともに現れた戦車の列でした。プラハの春を共産主義への脅威と見なしたワルシャワ条約機構軍が侵攻してきたのです。

それからの日々は、ある種のお祭りのようでもありました。通りを占拠する戦車と兵士たち。群がり、抗議の声をあげる群衆。国旗を翻し、バイクで戦車の周りを走り回る若者たち。ミニスカートでロシア兵を挑発する女の子たち。テレザはそんな人々の写真を撮りまくっては西側のジャーナリストたちに渡します。「この事実を世界に知らせて」と。その数日間をテレザは幸福によく似たある種の興奮状態ですごします。しかしそれらの日々が終わった後、代わって現れたのは粛清と「正常化」の時代でした。

トマーシュとテレザはチェコを出て、トマシュを誘ってくれたチューリヒの病院に行くことを決意します。プラハを出れば二人の関係も変わるとテレザは期待し、テレザの悪夢が終わるならとトマーシュは期待したのでした。共産主義の悪夢が終わるように。

しかしスイスには先にサビナが来ていました。ふたたびトマーシュとサビナは会うようになります。テレザの方は、プラハの町を蹂躙する戦車の写真を持って就職活動をはじめますが、雑誌社の編集長からはもはやニュース性がないと返されてしまいます。

やはり、ここでも幸福にはなれないと知ったテレザは、愛犬のカレーニンを連れてプラハへ帰ってしまいます。置き手紙を残して。重い鉄のカーテンを、二度と開かないカーテンを降ろした祖国へと。

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タイトルに見るように、この本は「重さ」「軽さ」をめぐる物語だと言えます。普段私たちは「軽さ」に価値を置き、「重さ」を悪と見なします。「人生の重荷」という表現がそれを示しています。しかし重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことなのでしょうか。

たとえばトマーシュの愛人サビナの人生は重さから逃れる旅です。それは「裏切りの人生」と呼ぶことも可能です。子供の頃同級生と交際することを父から禁じられた彼女は、父が嫌うピカソを愛することで父を裏切り、父の愛から逃れます。ワルシャワ条約機構軍の侵攻によってプラハの春が破れたとき、彼女は祖国を逃れジュネーブに亡命します。そこで知り合った妻子ある大学教授のフランツと愛人関係を結んだ彼女は、フランツが離婚を決意してアパートに転がり込んできたときさっさと引っ越してしまいます。彼女にはフランツのまるごとを引き受ける気持ちはなかったのです。ジュネーブに亡命したチェコ人の集まりに呼ばれた彼女は、彼らの喋り方と彼らを抑圧した共産主義者の喋り方が同じであることに耐えられず、そこを飛び出してしまいます(いずれも、生き生きとした現実よりも大義に重きを置き、話す相手を長い人差し指でさしてしゃべる人たちでした)。

やがて彼女はパリへ逃れ、ニューヨークへ、そしてカリフォルニアへと逃れていきます。重さを拒否した彼女の人生は、根無し草のように拠り所を失って、ただどこまでも漂っていく他なかったのでした。それでもある日一通の手紙が舞い込んできて、トマーシュとテレザの死を告げたとき、彼女の頬を涙が伝います。彼女はその知らせから立ち直ることができませんでした。彼女を過去と結びつけていた最後の綱がそのとき切れたのでした。

トマーシュの人生も「軽さ」を志向する人生です。長くつきあう女とは3週間に1回以上は会わず、しょっちゅう会う女とは3回以上続けて会わない。これが特定の女との固定的な関係を築かないための彼流のやり方でした。

そんな彼が、彼の部屋に転がりこんできたテレザとの結婚を何故あっさり決めたのか。それもまた、トマーシュにとっては軽やかな決定だったのかもしれません。

しかし、たくさんの女たちの間を飛び回る彼の人生は、テレザの登場によって大きく方向を変えていきます。テレザと結婚してからのトマーシュは、あいかわらずの女性遍歴をつづけながらも、その旅はいつもテレザの周囲をめぐる旅へと変貌していたのでした。

テレザが国へ帰ってしまったことを知ったトマーシュは思い悩みます。このままチューリヒに残り、テレザがプラハで一人で生きていくのを想像するのは耐えられないという気持ちと、これで晴れて独り身になったというよろこびの狭間で。

「彼とテレザとの愛は美しくはあったが、世話のやけるものであった。絶えず何かをかくし、装い、偽り、改め、彼女をご機嫌にさせておき、落ち着かせ、絶えず愛を示し、彼女の嫉妬、彼女の苦しみ、彼女の夢により告訴され、有罪と感じ、正当性を証明し、謝らねばならなかった。」

それでも、トマーシュはプラハに戻る道を選びます。戻ればパスポートは取り上げられ、二度と国外へ出られなくなることを知りながら。「そうあるべきなんだ」。そうつぶやきながら彼は国境へ車を走らせます。案の定、戻った彼を待っていたのは民主化の時代に書いた反体制的な論文を撤回しろという命令でした。トマーシュは、良心からと言うよりも「臆病が習慣になるのが嫌で」それを断り、自ら辞職します。

大病院の外科医から小さな診療所の一般医へと「降りた」トマーシュでしたが、そこへも内務省の人間がやってきます。「君のような優秀な外科医がこんなところで才能を朽ちさせていることについては、上の人間も心を痛めているんだよ」「あの論文を書き直すつもりはないのかね」

トマーシュは診療所も辞め、窓の掃除人となります。それからもいくつかの事件があり、二人は体制の追求を逃れ、テレザを悩ますトマーシュの女の影から逃れるために、プラハを捨て、知人のつてを頼って農村へと移住します。そこで彼はトラックの運転手となったのでした。

4

この物語を、巨大な時代のうねりに翻弄されたエリートの悲劇とか、人間の自由を圧殺する共産主義への告発の書と見ることも可能です。また、一人の好色な男と一人の貞淑な女の泥沼の愛の物語と読んでもいいでしょう。しかし、この物語の最良の可能性はそこにはありません。

村人たちとともに訪れた小さなダンスホールで、トマーシュとテレザは一緒に踊ります。「トマーシュ、あなたの人生で出会った不運はみんな私のせいなの。私のせいで、あなたはこんなところまで来てしまったの。こんな低いところに、これ以上行けない低いところに」と謝るテレザに、トマーシュは言います。「気でも狂ったのかい?どんな低いところについて話しているんだい?ぼくがここで幸福なことに気がつかないのかい?」

でも、とテレザは言います。「あなたの使命は手術をすることよ」。トマーシュは答えます。「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。」

やはりトマーシュは軽いのかもしれません。重さを拒否することによってではなく、重さに縛られないことによって。そのとき重さは重さとしてではなく、軽さとして私たちの前に現れてくるのかもしれません。



幸福とは多くの選択肢をもつことではなく、何かを引き受けて生きること、「重さ」とともに生きることではないでしょうか。若さも自由も時間も金も何でも持っていた「レス・ザン・ゼロ」の若者たちは、ただひとつ自ら引き受ける何かを持たなかったが故に、ゼロよりも少ない、空気よりも軽い青春を生きざるを得ませんでした。それをクンデラは「存在の耐えられない軽さ」と呼びます。どんな重荷も拒否できる彼らは、そこであえて何かを引き受けるには鋭敏でありすぎたのだと言えます。

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それはまた、相対化の時代を生きる私たちの姿とも重なるでしょう。あらゆる価値が相対化されうる以上、すべてを相対化していったときそこには何も残りません。もともとすべてが無根拠であり、すべてが幻想なのです。しかしそこから生還する方法はあります。すべてが根拠を失い、不確かにゆらぐ世界を生き抜いた「去年を待ちながら」のエリックや「リプレイ」のジェフのことを思い起こしてください。絶望と希望が交錯する長い旅の果てに、自分が何を引き受けなければならないかを知ったとき、彼らはふたたび現実の世界に還ってきたのでした。

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それはたぶん、目の眩むような驚きやわくわくするような発見ではなく、とても凡庸でありふれた事実なのです。現実を超越した何かー大義や未来ーに価値を置き、それを拠り所に生きるのではなく、今目の前にいる誰かを大事にすること。それは、あらゆる価値の相対化にも関わらず、昔からの伝統に従って民族衣装に身をつつみ、決められたステップのとおりにワルツを踊るようなものかもしれません。


クンデラはこの物語を次のように結んでいます。

その悲しみは、われわれが最後の駅にいることを意味した。その幸福はわれわれが一緒にいることを意味した。悲しみは形態であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも満たした。