2004年12月30日木曜日

レス・ザン・ゼロ(ブレット・イーストン・エリス)

Less Than Zero (Picador Books)Less Than Zero (Picador Books)
Bret Easton Ellis

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みんな合流するのが恐いのよ。それが帰ってきて最初に聞いた言葉だ。ブレアはロス空港でぼくを拾うと、高速のランプを登りながらそうつぶやく。「みんな高速の合流が恐いのよね」。なんでもないその言葉がぼくの心にひっかかって離れない。

1

その言葉はたしかに私の心にも引っかかったようです。こんな風にはじまる「LESS THAN ZERO」は、上流階級の若者たちの「ゼロよりも少ない青春」を描いて80年代のアメリカ文学界にセンセーションを呼び起こしました。

東部の大学に通っている主人公クレイは、クリスマス休暇でロサンゼルスに帰ってきます。なま暖かい風。車の中にかすかに残るマリファナの匂い。そこには高校時代と変わらないLAの生活がありました。

クレイ。顔色悪いな。

彼を迎える第一声はこうです。しかし東部から帰ってきたばかりのクレイにとって、久しぶりのLAの生活はどこか見慣れない、ガラス越しの風景のようでした。


作者は、上流階級の若者たちの風俗を余すところなく描きだします。ドラッグ、セックス、日焼けサロン、ポルノ、プール付きの家、毎晩のパーティ・・・。しかし、そのファッショナブルなストーリーに感情移入の余地はほとんどと言っていいほどありません。時折挿入される回想シーンを除いてほぼ全編が現在形で書かれたこの本は、主人公をとりまく会話や風景や行為をただ淡々と綴っていくのみです。それらを見つめるクレイの感情さえも、時折ほんのちょっとした会話の余白にゆらぎのようにさしはさまれる程度でしかありません。

そうでなくても、描かれるのは私たちとはまるで縁のない上流階級の日常で、登場人物たちもちっとも魅力的ではありません。映画プロデューサーのブレアの父親はホームパーティに平気でボーイフレンドを呼ぶし、クレイの両親は別居してほとんど口をききません。親たちはみんな息子や娘を置いて外国へ行ってしまっているし、子供たちの方は親が今どこにいるのかをゴシップ誌の記事で知るありさまです。家族の会話はまるで噛みあわず、誰も相手の言葉に耳を傾けようとせず、友人たちは互いに目を合わせようとしません。たまにじっと見つめる視線があると、それはクスリでイっちゃってる焦点の合わない目だったりします。

みんな合流するのが恐いのよ」

たぶん翻訳でこの本を読んだ人の大半が途中で放り出してしまったのではないでしょうか。たいして魅力的でもない若者たちの延々とつづく無為な日々の記録を、忍耐を持って読みつづけられる人はそういないと思われます。カリフォルニアの青い空。おしゃれな若者たち。散りばめられた鮮やかな色彩の中に描かれる光景はそれだけ空虚です。


行き止まりの道へ車を乗り入れる友人にクレイは尋ねます。

どこへ行くんだ?。

友人の答えはこうです。

「知らねえよ。ただ走ってるだけさ」

「でもこの道は行き止まりだぜ」。クレイは言います。

「関係ないね」

「じゃ何か関係あることってあるのか?」。しばらくしてクレイは尋ねます。

「ただ俺たちがこうして道の上を走ってるってことだよ」

2

どこか客観的に見つめているクレイ自身も、高校時代の恋人ブレアに対して煮えきらない態度をとるのみです。「もうあいつとは終わったんだよ」と言いながら彼女と寝てみたり・・・。

そんな無為の日々の中で、多くを語らない友人たちの会話からだんだんはっきりしてくるのは、どうやら親友のジュリアンがまずい状況に陥っているらしいことでした。ジュリアンからの留守番電話や置き手紙。彼が会いたがっているという話は聞こえてくるのに、すれ違いばかりでなかなか親友に会えないクレイでした。しかし、ようやく会えたジュリアンはこう言うだけです。「カネ貸してくれよ」。彼はクスリのために莫大な借金を抱え、そのかたに売春夫をさせられているようなのです。

使途もわからないままジュリアンに金を貸してしまったクレイは、返してもらうためにジュリアンの売春の場面にまで立ち会う羽目になります。

ホテルの一室。金を持ったビジネスマン。裏返しにされるジュリアン。小学生のジュリアンのイメージがそれに重なります。5年生の放課後、スポーツクラブ。

どうしてみんな軌道をはずれていくのでしょうか。クレイと同じ東部の大学に通う友人のダニエルは、休暇が終わっても帰らない決意をします。いや、帰る決意をしなかったと言ったほうが正しいかもしれません。「だって帰る理由がないんだ」


ある場面でクレイは友人につかみかかります。

「こんなの間違ってるよ」

「バカ言うなよ。何かが欲しけりゃ俺たちはそいつを手に入れる権利がある。何かがしたけりゃそうする権利があるんだ」。

クレイは壁に身を預けます。寝室でスピンがうめく声が聞こえ、それからたぶん頬を平手打ちする音が聞こえます。

「だけどもう何も要らないだろ?何でも持ってるじゃないか」

「いいや」

「何だって?」

「ないものがあるんだ」。間があってクレイは尋ねます。

「おい。何がないって言うんだよ?」

「失うものが何もないのさ」

たぶんみんな気づいているのでしょう。自分たちが軌道をはずれていることに。それがわかっていても元には戻れないときがあります。とりわけ金と時間と若さがあり余っているときには。そしてそこに鋭敏すぎる神経が付け加わるときには。

大学時代にこんなことを書いた記憶があります。青春とは濃霧のようなもので、私たちは訳もわからずナイフを振り回しながら歩いているのだと。そして、霧の中から友人が転がり出てきて、血の滴る傷口を押さえながらこちらを見るとき、はじめて私たちは自分が持ったナイフの意味に気づくのだと。

3

救いのない物語は、救いのないままに終わります。ジュリアンを救い出すこともできず、ブレアとの宙ぶらりんな関係に結末を与えることもなく、ただクレイがLAを去ることによって物語は終わります。「潮時だ。長居しすぎた」そうつぶやいて。

多くの青春がそういうものかもしれません。卒業とは何かを解決することでも、何かを乗り越えることでもなく、ただ時期が来てそこから立ち去るだけのこと。誰もがそんな風に卒業し、青春を通りすぎていくのでしょう。ゼロよりも少なかったそれぞれの青春を。

それは生き残りを賭けた闘いなのだという言い方もできます。もとより無傷で通過することは不可能ですが、何とか道に戻ることのできたものだけが次の人生に進めるのです。ただし、精算できなかった青春のつけを背に負いながら。フランス五月革命のさなか、デモ中に手榴弾を受ける直前に「生きることは生き残ることじゃない」と書き記した学生のことを、哲学者のジル・ドゥルーズは「今日の最もニーチェ的な若者」と賞賛していますが、それをもじるなら「生き残ること、それこそが生きることだ」となるでしょうか。

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この本は1987年に映画化されました。主人公のクレイにアンドリュー・マッカーシー(「セント・エルモス・ファイアー」「イヤーオブ・ザ・ガン」)、クレイの親友ジュリアンにロバート・ダウニー・Jr(「チャーリー」「アリー・myラブ」)、友人で売人のリップにジェームス・スペイダー(「セックスと嘘とビデオテープ」「クラッシュ」)という豪華キャストでした。ちなみに主題歌は、サイモンとガーファンクルの名曲「冬の散歩道」をバングルズがカバーしてリバイバルヒットさせました。


真にこの本の雰囲気を味わうならやはり原書で読むことをおすすめします。そんなに難しい文章ではありません。私のあやしい読解力でも雰囲気くらいはつかめるのですから(偉そうに言ってますが、私も決して全編を原文で読破したわけではありません。どちらかと言えば、わかるとこだけ拾い読みしたという程度でしょうか)。文学的に凝った言い回しはまったくなく、むしろ平易な短文によるストレートな描写が命ですから、それほど苦労せずに読めると思います。

理想は原文で雰囲気をつかみ、映画で視覚的イメージをふくらませ、翻訳で意味を補う(笑)というところでしょうか。

単にストーリーを追い、意味を追うのではない何かがあとに残ると思います。そう、たとえば「みんな合流が恐いのよ」。そうつぶやいたブレアの言葉のように。

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作者のブレット・イーストン・エリスは、大学在学中に書いたこのデビュー作以後、「The Rules of Attraction」(2002年映画化)、「American Psycho」(2000年映画化)を書いています。前者はクレイが帰っていった東部の大学での話です(主人公ではありませんがクレイもちょい役で登場します)が、「LESS THAN ZERO」ほど軽く読み進むことができず、途中でやめてしまいました。後者は女性を生きたまま切り刻んで殺し、その身体の部分を部屋中に放置して平然と暮らしている殺人マニアのヤッピーの話で、日本語で読みはじめたものの読んでいるうちに比喩ではなしに気分が悪くなってやはりやめてしまいました。

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余談ながら、映画「再会の街―ブライト・ライツ・ビッグシティ」(マイケル・J・フォックス主演)の原作となったジェイ・マキナニーの「Bright Lights, Big City」も同じ頃に原書で読みました(読もうとしました)が、エリスの文章と違って文学的比喩が多く文章も複雑で、先に映画でストーリーを知っていたにも関わらず読み進むのに苦労したのを覚えています。いきなりボリビアの兵隊の行進(ボリビアはコカインの原料であるコカ葉の主要な産地のひとつ)なんて言われても、それがドラッグでハイになってる様子だなんてわかりませんよね(笑)。しようがないので翻訳本を買って時々カンニングしながら読みました。


では、最後にクレイとブレアの別れ(?)のシーンを。

「私を好きだったことある?クレイ」

ぼくは黙って、メニューに視線を戻す。

「一度だって好きだったことあるの?」

「誰も好きになりたくない。好きになったりしたら、物事はもっとひどくなる。困ったことになるんだ。好きになんかならない方が気が楽なんだよ」

「私はちょっとの間だけどあなたのこと好きだったのよ」

ぼくは黙っている。

彼女はサングラスをはずすと、最後に言う。「またね」彼女は立ち上がる。

「どこへ行くの?」不意にぼくはブレアを置いて行きたくないような気がしてくる。彼女をニューハンプシャーへ連れて帰りたくなる。

「友達とランチを食べなきゃ」

「俺たちどうなる?」

「俺たちどうなるですって?」彼女は立ったまますこし待っている。ぼくはまだ看板の方を見ている。やがて看板がかすんで、そして視界が戻ってくると、ブレアの車は駐車場を出てサンセット通りの車の波に消えていく。ウェイターがやってきてたずねる。「お客様、だいじょうぶですか?」

ぼくは顔をあげ、サングラスをかけて何とか微笑もうとする。「ああ、だいじょうぶさ」

(引用部分の訳はすべて奥村)