2005年9月30日金曜日

亡国のイージス/終戦のローレライ(福井晴敏)

亡国のイージス 上 (講談社文庫)亡国のイージス 上 (講談社文庫)
福井 晴敏

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終戦のローレライ(1) (講談社文庫)終戦のローレライ(1) (講談社文庫)
福井 晴敏

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いずれも映画化され、書店には文庫版の原作がうずたかく平積みされている作品ですから、今さらストーリーを詳しく紹介する必要はないでしょう。


映画も原作もまだ、という方のために少しだけ紹介するなら、

北朝鮮のテロリストに乗っ取られた最新鋭のイージス艦「いそかぜ」。東京湾に停泊したいそかぜのミサイルは照準を首都に合わせる。そこには米軍から盗み出された弾頭が搭載され、その殺傷能力は核兵器に匹敵するという・・・。(亡国のイージス)

謎の秘密兵器「ローレライ」を装備したドイツの潜水艦UF4。シーゴーストと呼ばれ連合国軍から恐れられたUF4は、ドイツの降伏とともに日本海軍の手に渡った。終戦間近の太平洋戦争を舞台に、UF4とローレライをめぐる日米両国の暗闘がはじまる・・・。(終戦のローレライ)

これじゃまるで和製トム・クランシーかという感じですが、まさにその通りなんです。軍事サスペンスとしての緊迫度やリアルさと言い、ミステリーとしての完成度と言い、クランシーに優るとも劣らない作者の実力がそこに見てとれます。


それに恥じず、福井晴敏は「亡国のイージス」で大藪春彦賞、日本冒険小説協会大賞、日本推理作家協会賞をトリプル受賞した後、「終戦のローレライ」で吉川英治文学新人賞、日本冒険小説協会大賞(再)を受賞しています。エンタテイメント文学の領域において、福井晴敏はすでに不動の地位を確立したと言って過言ではないでしょう。


しかし、それだけでしょうか?「エンタテイメント」をはずした「文学」としての評価はどうなのでしょう。

私は、そもそも純文学と通俗文学の間に垣根を置くこと自体無意味だと思っていますが、福井晴敏のような作家こそそのような枠組みを超えて評価されてほしいと思います。

ここでは、「文学作品」としての「ローレライ」「イージス」にスポットを当てていきます。

革命、その誘惑のことば

・・・
同じ過ちが幾度もくり返されるだろう。だが我々は何度でも立ち上がる。血反吐を吐き、苦しみ悶えながら何度でも立ち上がる。いまここで我々の命が断たれても、その力は若い二つの命に受け継がれた。貴様の見通した未来が訪れようと訪れまいと、彼らは歩きつづける。確定した破滅さえ乗り越えて、貴様や我々にはたどり着けない未来に向けて歩いてゆく。
・・・(「終戦のローレライ」より)

フランス革命とロシア革命以来、「世界を変える」ことこそ「人類の希望」と、私たちは考えてきたのではないでしょうか。革命という美名の背後に隠された血塗られた現実にうすうす気づきながらも、なおそれを希望のひとつのかたちとして私たちは受け止めてこなかったでしょうか。

つい先頃でいえば、ウクライナの革命がありました。その内部に確実に隠されているはずの暗部が、そこでは「オレンジ革命」というきれいなキャッチフレーズの下に伝説化されたのでした。

福井晴敏の著作にも、社会の不正と堕落を怒り、社会の根本的な変革を夢見る人物がくりかえし登場します。

「ローレライ」における浅倉大佐、「イージス」における北朝鮮のテロリスト、ホ・ユンファがそうです。

人生の地獄を見てきた彼らの主張には、たしかにそれだけの説得力があります。それは憲法9条と日米安保の下で安寧をむさぼる国民と、ことなかれ主義の官僚集団に対する告発です。いつでも、現実を知ったものによる現場からの異議申し立てにはそれなりの正当性があります。企業の現場にも学校の現場にも、そして軍隊の現場、国家の現場にも同じものがあるのです。

ですから、その異議申し立てはさまざまな「現場」にいる多くの人の共感を呼び喚こすかもしれません。「そうそうそれが言いたかったんだよ。ろくに現場を知らないやつらが好き勝手言いやがって」と。浅倉大佐とホ・ユンファにかぎらず、その志向は他の登場人物にも共通する部分があります。

彼らの理想は必然的に「政治」の否定に向かいます。政治こそ、現場をないがしろにし、現場にいる者たちを翻弄するものの極北ですから。しかし、そこに彼らの議論の書生くささがあるとも言えます。

政治を否定した瞬間に、彼らは別の意味で現実に立った視点を失ってしまうからです。現実に立脚して異議申し立てをした彼らが、まさにそのことによって現実の視点を失うというのは皮肉ではあります。

実は現場とはフィールドにだけあるのではなく、ひとつだけあるのでもない。政治家にも官僚にもふつうの市民にもそれぞれの「現場」があるからではないでしょうか。そうした複眼的思考を忘れたとき、私たちはある現実に近づく代わり、別の現実から遠ざかってしまうのではないでしょうか。

だから、現場と「上」との対立が起きるあらゆる場所で、「上」を呪詛するたたき上げの言葉は、半面の正しさと半面の思い違いを含んでいるのではないかと思います。


確固とした理念に裏打ちされ、私たちの中の使命感や正義感に訴えかける革命のことば。しかし、それが正当であればあるほどその破綻のなさがかえって現実からの乖離を意味し、空中に浮かんだ透明な風船の中に私たちを閉じこめてしまう言葉。

ひとしきり浅倉大佐やホ・ユンファの視点から世界を眺め、そこに一定の正当性を与えたあと、著者はそれに対してまったく異なる別の声をぶつけます。

「イージス」の仙石先任伍長の声であり、「ローレライ」の折笠上等兵の声です。ふたりは年格好も物語の中での役回りもまるで違うのですが、ある意味で同じ役割を担っていると言えます。

その声は、理論的でもなく、また思想的でもありません。その明快さと破綻のなさにおいては、おそらく革命の声にはるかに及ばないでしょう。

しかしその声は私たちの直感に訴えかけ、私たちを我に返らせるのです。「世界を変えられる」という、そこに正義があるという甘美な誘惑に危うく自分が呑み込まれるところだった、その事実に冷やりとさせながら。

いまここで、あなたと
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「パパラギ」という本があります。若いころに欧米各国を見て回ったサモアの酋長が書き残した言葉を集めた本です。それは「文明」を相対化し、「文明=進化」こそを価値と捉えてきた私たちを優しく告発する本でした。そのあとがきに、ある画家が書きつけた言葉…。

…小冊子『パパラギ』が私にとって愛すべきものとなったのは、『帰れる』という夢でした。実現不可能な夢。なぜなら、現在の技術と生活水準のことを考えると私たちはもう、自分では止めることのできない手順を始動させてしまった、例の『魔法使いの弟子』のようなものですから…

世界を変えられる。その思考の背景には、理性の光とともに、いまこの世界を引き受けられない弱みが潜んでいるように思われます。「ここじゃないどこかへ、あなたでないだれかと」(第三舞台「もうひとつの地球にある水平線のあるピアノ」より)。その魅惑的な誘いは、私たちの弱いこころに忍び込んできます。

そう言えば、「去年を待ちながら」(P.K.ディック、創元推理文庫)の中で、自律運動タクシーが主人公にこう言う場面があります。

去年を待ちながら (創元推理文庫)去年を待ちながら (創元推理文庫)
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…人生はさまざまな様相の現実から成っていて、それを変えることはできないからです。妻を捨てるということは、こうした現実に耐えられないって言っているのと同じなんです。自分だけもっと楽な別の条件がなければ生きて行けないって言うのと等しいことなんです。…

また「ローレライ」のある登場人物の独白。

…とんだ貧乏籤を引かされたものだが、仕方がない。賭けの結果はこう出たのだ。…

…なにもかも自分で裁量しているつもりでいて、外からのちょっとした干渉で根本から狂ってしまう。人の生など、しょせんその程度のものなのだから…。

世界を変えられるなんて思わない。いや、世界を変えようと思うこころの弱さこそが死を運んでくる。福井晴敏の作品が問いかけてくるのはこのことではないでしょうか。

世界を変えるのではなく、自分が生きること。いまこの世界を引き受けて生きること。福井晴敏は何度となくそのことのたいせつさを繰り返します。

…全員 (ゆっくりと起き上がりつつ)いつのころからか分からないのだけれど、ある街の風景が私の頭にすみついてはなれないんだ。それはニューヨークでもトキオでもシャンハイでもメキシコシティーでもなく、そのどれでもあり、どれでもない、ここじゃないどこかなんだ。いや、ひょっとするとここかもしれないどこかなんだ。その街に住む人々はみんな未来がないけど元気なんだ。ここじゃないどこかへ、あなたでない誰かと、いやひょっとすると、ここかもしれないどこかへ、あなたかもしれない誰かと。いつのころからか分からないのだけれど、ある街の風景が私の頭にすみついてはなれないんだ。その街に住む人々はみんな未来がないけど元気なんだ。ここじゃないどこかへ、あなたでない誰かと、いやひょっとすると、ここかもしれないどこかへ、あなたかもしれない誰かと。ここじゃないどこかへ、あなたでない誰かと、いやひょっとすると、ここかもしれないどこかへ、あなたかもしれない誰かと。…
(前掲「もうひとつの地球にある水平線のあるピアノ」)

その戦いは苦しいものになるでしょう。「ローレライ」の中で絹見艦長が言ったように、「同じ過ちが幾度もくり返される」でしょう。しかし、それでも私たちは「血反吐を吐き、苦しみ悶えながら何度でも立ち上がる」でしょう。ちょうど「電子城」の終幕、夜風に向かってテントが開かれるおさだまりの瞬間、その向こうに見える城へ向かって主人公たちが行進をはじめるように。

舞台回しの役者がこう言います。

「彼らはまた敗れ去るかもしれません。城に向かいながらも、また王に会わず、その道を逸れてしまうかもしれません。けれども、結末のないこの旅の中でひとつだけ確かなことは、彼らがその闘いをおそらく永遠に闘いつづけるだろうということです。何度も敗れ、何度も道を誤りながら、それでもまた朝が来て私たちは王に会いに出かけていくでしょう。」

「個」を超えて

その「生」への行進が逆説的に「死」へとつながる、そんな極限の状況が福井晴敏の作品には描かれます。しかし、たとえ死ぬことになっても、それは「死して護国の鬼となる」というような軍国主義や国粋主義の死生観とは対極にあるものです。

福井晴敏は決して「国のため」とか「大義のため」というような死を肯定しません。ある種の人々にとって甘美な響きを持つその言葉を、福井晴敏はくりかえし否定します。

むしろそんな言葉が滅ぼそうとする何かを守るためにこそ、彼の作品の登場人物たちは生き、死んでゆくのです(それを甘美な言葉で語ろうとすることもまた私たちは注意深く避けなければなりません)。

では、その「何か」とは何でしょうか?


狂気の沙汰をくぐり抜け、終戦を超えて現代にまで生き抜いた「ローレライ」の主人公たちが見たのは、安保と憲法9条に守られながら高度経済成長を果たした日本の姿でした。それは浅倉大佐が予言したとおりの日本の姿だったとも言えます。魂を売り渡し、モラルを失い、金の亡者となりはてた人々。生と死の地獄をくぐり抜けてきたふたりにとって、平和な現代日本の姿はそのように見えたとしてもしかたはありません。

せっかく生きて帰っても、何もできなかった現実にふたりは打ちのめされます。こんな未来のために自分たちは帰ってきたのか。愛する人々のたくさんの死と引き替えに、と。

その瞬間、彼らは浅倉大佐と同じ視点で世界を見ていると言えます。


しかし、最後に救いをもたらすのはやはり若者でした。50年以上前に大人たちから未来を託されたふたりも、いつのまにか次の(そしてさらに次の)世代に未来を託す年になっていたのです。

で完結しないこと。生きて子を生み、育てること。世代を超えて何かを伝えていくこと。

それは平凡な営みであり、市井に埋もれて暮らすことかもしれません。大義からも理想からも遠い生き方かもしれません。しかしそうした営みこそが生を輝かせ、未来に希望をつなぐのではないでしょうか。

福井晴敏の作品にはさまざまな記憶とそれにまつわる「小道具」が登場します。それは父が残したレコードとそれが奏でる異国の唄であったり、祖父に手ほどきされた絵画とそれを象徴する絵筆であったりします。また父に肩車されながら聞いた下駄の音であったり、出征前夜に母が作ってくれたあんこ鍋であったりするのです。

それらのすべてが語ろうとしているのは、人と人とのつながりではないでしょうか。すべての人が、生きているかぎり何らかのかたちで人と関わり、何かを残していくのではないでしょうか。福井晴敏はそこにこそ生の意味を求めようとしているように思えます。

それらの記憶が主人公たちの脳裏に甦るとき、彼らをつき動かすのは「つながっている」という思いです。自分を世界につなぎとめているものの存在を感じとったとき、彼らは革命の言葉が描き出す世界の嘘に気づくのです。


5月革命のさなか、フランスの学生リシャール・デシャーエはデモ中に手榴弾を受ける直前に、こう書きました。

「生きること、それは生き残ることじゃない」

この逆説的な言葉をフランスの哲学者ドゥルーズは「今日のもっとも美しく、もっとも深くニーチェ的なテクストのひとつ」と評しています。

しかし福井晴敏の2作品を読んで、私はこれは逆ではないかという思いをあらたにします。平凡かもしれませんが、やはり「生きること、それは生き残ることだ」と思うのです。生きて、希望を未来につなぐことだ、と。

「個」を超えて人類が生きること。

考えてみれば、自然界ではあたりまえのこの「生命の原理」を、「本能が壊れた動物」(岸田秀)である私たち人間は、こうして何度も再確認しながら生きていかねばならないのでしょうか。

最後に

最初に述べたとおり、この評論では福井作品のエンタテイメント性については、その受賞歴を紹介するのみで、あえて触れないでおきました。ネタバレを避けるためにもそれは必要だったわけですが、とは言え私の紹介があまりにも偏っているために読者に誤解を与えてもいけないので、あわてて付け加えておくことにします。

「ローレライ」も「イージス」も決して辛気くさいばかりの文芸大作ではなく、エンタテイメント性満点の小説です。
本格推理なみの謎あり、アクションあり、爆発あり、あっと言わせる大どんでん返しあり、という訳で推理マニアから軍事マニア、普通の読者にいたるまでその期待を裏切らないだけの完成度を備えた作品と言えます。

とりわけ、いずれも映画化された作品だけあって(特に「ローレライ」は映画化を前提に執筆されました)、そのあざやかな映像喚起力は特筆に値します(映画の方がそれに匹敵するレベルに仕上がっているか心配になるほどです)。たとえば…

東京湾に浮かぶイージス艦「いそかぜ」。その艦橋で繰り広げられるふたりの男の死闘。上空を旋回するヘリコプター、距離を置いて取り囲む哨戒艇。空から、海から、また海中から、いくつもの目がそれを見守る。そして男の手が最終兵器のスイッチにかけられる…。
(イージス)

秘密任務を帯びた兵士たちを運ぶ偽装浚渫船。突然現れた米戦闘機の機銃掃射に彼らが危機に陥ったとき、海面を破って一隻の潜水艦が出現する。艦橋から下ろされた縄梯子。弾幕を縫って次々とそれに飛びつく兵士たち。潜水艦の主砲と浚渫船に隠されていた対空砲が火を吹く。艦橋によじのぼった少年が見おろしたとき、たったひとり浚渫船に残って戦闘機を迎撃する男の姿は遠ざかり、潜水艦は急速に潜航しはじめていたのだった…。
(ローレライ)

原子爆弾を腹に積んで飛び立つB29。米空母の下をくぐって突然浮上する潜水艦。海面に姿を現すとともに、巨大なその主砲は飛び立つ爆撃機に向けられる。視点が変わって、B29のコクピットから見おろす眼下の光景は、圧倒的な数の米海軍の艦船。その中の見慣れない潜水艦の砲塔がこちらに向けられている…。
(ローレライ)

いくつかのシーンをさわりだけ紹介してみましたが、いかがでしょうか。

満載のエンタテイメント性とそこに注意深く仕込まれた哲学性、それらの全体こそがこの2冊の本の醍醐味だと思います。そしてそれこそが、本来文学というものの醍醐味なのではないでしょうか。ぜひともそのすべてを味わっていただきたいものです。