アースダイバー
中沢 新一
講談社 2005-06-01
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中沢新一によれば、都市とは自由の場であるという。
都市の出発点は多くの場合「市(いち)」にあるが、市こそはモノを日常のしがらみから解き放って交換する場所であった。
そこでは、文化と文化が出会い、古い関係が解消されて、新しい関係がつくられるのだった。
そのような場所から発展してきた都市は、今でも確かに自由の場としての面影をとどめている。
人々は地縁、血縁その他のしがらみを捨てて都市に集まってくる。
「自由」というと、なんだか青い空に鳩が飛びたち、子どもたちが両手を大きく広げて立っている、みたいなイメージがあるが(笑)、それは実は幻想だということがよくわかる。
自由の本当の姿は、例えば灰色の雑踏や、地下鉄のホームで嗅ぐ鉄サビの匂いの中にあるのかもしれない。かつて「東京砂漠」と呼ばれた場所に。
浅田彰は、昔ニューアカブームの先鞭をつけた著書「構造と力」の最後に砂漠のイメージを置いた。
湿った風は後ろ髪を引き、しがらみの中へと人を引き戻す。むしろ砂漠の乾いた砂粒となって逃走するのだ、と。
そうしてみれば、都市とは砂漠であり、そのことによって自由の場であるということになる。
そこで気になるのは、今教育を語るとき、ひとつのキーワードとなりつつある「地域コミュニティの再生」という問題だ。
例えば、核家族化の進行の過程で、「地域ぐるみで子どもを育てる」という風土が失われ、母と子が孤立してしまったということがある。
だから、地域コミュニティを再活性化することこそ、袋小路に入ってしまった教育を再生するための方法論だというわけだ。
しかし、もし都市という場が自由の場であり、世俗のしがらみから解き放たれる場であるとするならば、都市におけるコミュニティの再生などありえないということになる。
都市にかつて存在したコミュニティが崩壊したのではなく、都市化ということとコミュニティの崩壊ということは、もともとひとつの出来事だったということだから。
それでは解決の道筋はないのか。
中沢新一は、都市の自由を「私有」の概念が浸食しているという。
例えば、「庭」だ。
中沢新一によれば、庭とはもともと「人間を超越した原理や力の支配している、自由と平等のゆきわたった空間」を意味したという。
都市の原点である市場は、貨幣の正義の下にすべてのモノが等価交換される「市庭」だったのであり、法廷とは、法の正義の前にすべての者が平等に裁かれる「法庭」であった。
しかし、近代になって「私有」の概念が一般的になるとともに、庭は塀で囲われ、他人が入りこめない不自由な場所となった。
唯一、都市の中で今でも自由を保っているのが、植木鉢が並ぶ「路地庭」だと中沢新一はいう。
それは、個人が作った庭でありながらも、行き交う人々によって共有される風景なのだ。
共有できる庭を持つこと。もしもそれが可能なら、まだコミュニティ再生の望みはあるかもしれない。
自由でありながら、個に閉じこもらないこと。関係性に縛られず、それでいて孤立しないこと。
この議論はまだまだ抽象的だが、発展性がありそうだ。