2006年7月29日土曜日

時生(東野圭吾)

時生 (講談社文庫)時生 (講談社文庫)
東野 圭吾

講談社 2005-08-12
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プロローグは、病室に立ち尽くす一組の夫婦。


彼らの高校生になる息子は、グレゴリウス症候群という不治の病に冒されていて、短かった生涯を今まさに閉じようとしている。


いつかこの日が来ることを、彼らは覚悟していた。彼らの息子が背負っている病は先天性のものだったから。

それを知りながら彼らは結婚し、それを知りながら子どもを作ったのだったから。


発病してからも、彼らはできるだけのことを息子のためにしてきた。

4WDのワゴン車を買って、北海道までドライブした。ラベンダー畑の見える丘で、バーベキューパーティをした。狭い車内で三人並んで横になり、サンルーフを開けて星空を眺めながら眠った。

そうした日々の果ての今日なのだった。


二人して待合室の椅子に腰掛けた時、妻が夫に言う。

「あたしは、あの子に聞いてみたかった」

「何を?」

「生まれてきてよかったと思ったことがあるかどうか。幸せだったかどうか」

沈黙の後、父親がつぶやく。

「じつは、話しておきたいことがある」

「ずっと昔、俺はあいつに会ってるんだ」

・・・


そう、彼(拓実)は23の時に「トキオ」と名乗る不思議な青年に出会った。

その頃の彼はどうしようもない若者だった。自堕落で、怠惰で、職についてもすぐに放り出してしまう。

「でかいことがしたい。一発当てたい」

それだけが口癖で、だから何かを我慢してコツコツ働こうとしない。

そんな訳だから、恋人にも愛想を尽かされる寸前だった。


トキオはそんな彼のもとに現れ、彼の「親戚みたいなもの」だと名乗る。

それからトキオは、彼の下宿に上がり込み、彼の行くところについて来る。

トキオをうるさがりながら、それでも何だか他人のような気がしない拓実。

そんなある日、恋人が突然失踪した。そこから拓実とトキオの二人の冒険がはじまる...。


物語の舞台はそれから大阪に移るのだが、大阪出身の作者は生粋の大阪弁を駆使してなかなか楽しませてくれる。

役者も揃っている。八方破れでやることなすこと思慮に欠ける拓実と、若いくせに分別のあるトキオ。これに、母親と二人で飲み屋をやっている竹美という女が絡み、彼女の恋人兼用心棒で元ボクサーの黒人ジェシーがついてくる。


中でもとりわけ光っているのは、竹美の存在だ。

15の時、母親が父親を殺して刑務所に入ってしまったために、天涯孤独になった。生きるためにヤクザの女になり、逃げられないように肩に入れ墨をされる。おかげで学校には行かせてもらえたが、ある日そのヤクザが殺されてしまい...。


悲惨な人生なのに、彼女は驚くほど前向きだ。例えば彼女はこう言う。

「そら誰でも恵まれた家庭に生まれたいけど、自分では親を選ばれへん。配られたカードで精一杯勝負するしかないやろ」

「小学校で英語を習わせてもらえるかどうか程度のことが何やの。そんなことで人の人生が変わるかいな」

謎の男イシハラやら怪しい古本屋なども交えながら、ドタバタのうちに彼らは大阪の町を駆け抜け、物語は進んでいく。

きわめて劇画チックだが、なかなか楽しめるサスペンスに仕上がっている。


しかし、それだけに全編を通読した時に浮かび上がってくるのは、若い拓実の自堕落さ、分別のなさと、死にゆく息子を前に立ち尽くす父親になった拓実の姿とのギャップだ。


大人になるとは、こういうことなのだろうか。人はこうして大人になり、生きていくのだろうか。

若いことが幸せなのか。歳を重ねることが幸せなのか。

生きているということは幸せなのか。それとも死んでゆくことが幸せなのか。

それはあまりにも切ない物語だが、若い拓実のハチャメチャさと竹美の力強さが物語を前向きなものに変えている。

だからこそ、別れ際にトキオは拓実にこう告げる。

「拓実さんと一緒にいられただけで、俺は幸せだった。いや、この世界で会う前から、そう思ってた。今の拓実さんと会う前だって、俺は十分に幸せだったよ。生まれてきてよかったと思ってる」

若い拓実は知る由もなかったが、それは病院の待合室で妻が夫に問いかけた問いへの答えだった。