亡国のイージス [DVD]
福井晴敏
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ちょっと前に録画していた「亡国のイージス」をやっと見た。
小説版に比べると、時間的制約の問題がやはり大きく、描き切れなかった部分が多いのは致し方ないところだろう。分厚い上下巻の、相当に読み応えのある本が原作であるのだから、まあ無理もない。
むしろ、映画を見て小説を手に取ろうという人が多いなら、それで十分に成功と考えるべきなのかと思う。
亡国のイージス 上 (講談社文庫)
福井 晴敏
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亡国のイージス 下(講談社文庫)
福井 晴敏
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詳しくは小説版の感想に譲るが、この作品を見てあらためて思うのは、危険なのは左翼の理想主義だけではない、右翼も極端に走れば同じ罠に陥ってしまうということ。そしてそのふたつは共通の原理に拠っているということだ。
護衛艦「いそかぜ」を占拠した宮津副長(小説では艦長)ら叛乱自衛官たちが寄る辺としているのは、死んだある防大生の言葉だった。
国家としての顔を持たない国にあって、国防の楯とは笑止。我らは亡国の楯(イージス)。偽りの平和に侵された民に、真実を告げる者。
そして、彼らと闘っているはずの防衛庁情報局の幹部(佐藤浩市)でさえこう言ってはばからない。
戦後60年、日本は太平洋と東シナ海のはざまにただ浮かんでいただけだ。平和だったらそれで国と呼べるのか。
確かにそうかも知れない。
60年を平和憲法とともに生きてきたこの国において、安全保障という概念は極めて弱い。その国にあって国防という役割を担いその最前線に生きる者にとって、国防の現場のお寒い状況に感じるものが憤り以外の何ものでもなかったとしても不思議ではない。
機能しない武器を持たされながら、それでも役割を果たすことを求められていることを思えば。
だがまた、それがこの国の現在であり、憲法のみならず、予算の配分や外交の問題、国民の意識などすべてを含めてこの国の「現実」であり、結局ぼくたちはその中でどうするかを考える他ないのも確かなことだ。
そのことを拒否し、そうでない日本に理想を置き「革命」に走った瞬間、彼らの行動は平和を至高の原理と置く左翼と何も変わらなくなる。
思えば、二・二六事件は青年将校によるそうした純粋主義の暴発から始まったのだったし、そこから戦前日本の迷走も始まったのだった。
必要なのは、未来へ向けての過度な「革新」ではなく、過去へ向かっての過度な「回帰」でもない、現在において闘い続けるという意味においての「保守」ではないか。
だが、それは想像以上に困難なことだ。
何故なら、革新に期待し、過去に甘美な思いを寄せるのもまた、現実を生きるぼくたち人間の姿であるからだ。そういう人間性を否定するとき、いつのまにかぼくたちはまた理想主義の湖のほとりに立っていることに気づかなければならない。
現実の中で生きるとは、どんな言葉でも抽象化できず、どんな言葉でも美化することのできない、泥の中を這い回るような極めて困難な、そして間違いだらけの試みなのだ。
その意味においても注目すべきなのは、この映画の中で繰り返し語られている「生きろ」という言葉だろう。
仙石伍長(真田広之)は如月行に言う。「無様でもいい。生きろ」と。
そう、生き残ることは決して格好いいことではない。むしろそれは無様であることの方が多い。
格好よさを求めるなら、溝口海佐=ホ・ユンファ(中井貴一)のように、理想を信じ革命に殉じて死んだ方がいいに決まっている。
そうではなく、この作品の主題は「生きる」ことにあった。どんなに情けなくても生き残ること。生き残るために闘うこと。
そうしなければ、何かを「次に」伝えることはできない。人は人に何かを伝えるためにこそ生きなければならないのだ。
この「伝える」ということこそ、小説版「亡国のイージス」の重要な主題であった。映画では(如月行の絵筆を除いて)そこがばっさりカットされて描かれなかったのが残念だ。
大義名分に寄りかかるのではなく、泥のように不確かな現実の中を生き抜くこと、そしてその中で誰かに何かを伝えていくことの大事さを、この映画を見て(小説版との共鳴の中で)あらためて思う。