2009年10月2日金曜日

Y(佐藤正午)

タイムスリップをめぐる出会いと別離。その物語はいつも読む者に切ない感情を呼び起こす。

それは、現代――交通手段と通信手段が著しく発達し、空間を隔てるということがもはや絶対的な障壁ではなくなった――において、今なお容易に(絶対に!?)越えることのできない隔たりこそが「時間」であるからだろうか。


佐藤正午の小説「Y」は、まさにそういう種類の物語だ。

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佐藤 正午

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ある日見知らない男から電話がかかってくる。

「おぼえていないかもしれないが」と男は言う。「ぼくはきみの親友だった」と。そして「ぼくの物語を読んでほしい」と懇願する。

編集者を生業にしている主人公は「売り込みだったらお断りだ」と答えるのだが、男は食い下がる。「読んでさえくれれば、ぼくがきみの親友だったという事実がわかるはずだから」と。

数日後、主人公は貸し金庫に預けられていた1枚のフロッピーディスクと500万円の現金を手に入れ、そして彼はフロッピーに収められていた男の物語を読みはじめる。しかし、そこから彼は、現実とも創作ともつかない不思議なストーリーの中に取り込まれてしまう‥。


それは、愛する人を救いたいと願った一人の男の物語だった。

愛する人を救いたいと願い、やがてその手段を手に入れた男は、しかしその結果新たに生み出される現実に裏切られていく。



誰かを救いたいと願うこと。それは意志だ。

しかし、何かを意志するということは、同時に何かを選択するということでもある。誰かを救おうとすると同時にすべての人を救うことはできない。

男は、自分が原因で自殺に追いやってしまった(と彼が信じている)女性を、その直接の原因となった事故から救おうと過去に戻る。

そこで男は愛する人を救い、親友を救い、さらに他の人々をも救おうとした。愛する人を救うことはできたが、親友も他の人々も救うことはできず、その結果として彼の人生は変わってしまう。


彼は選択することができなかったのだ。

愛するひとりの女性を救うために過去に戻った男は、しかしそれまでの十数年の人生の中で得た大切なものを捨てることができなかった。

生きるということは、ただひとつの愛を生きることではない。生きるとは、さまざまなレベルのいくつもの愛とともに生きるということだ。それは恋人であったり、家族であったり、友人であったりする。誰かを救うということ、すなわち意志するということは、それらの多様な愛をたったひとつの愛に集約するということなのだが、男にはそれができなかった。


もちろん、誰にだってそんなことはできない。それができるには人間を超えた存在でなければならない。

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ソニー・ピクチャーズが放った映画「スパイダーマン」は娯楽映画だが、そこには現代におけるスーパーマンの苦悩が描かれている。

スパイダーマンは世界を悪の手から守ろうとし、そのために自分自身の恋人をあきらめようとする。それは彼の「選択」だ。

しかしどれほど多くの人の「希望」を救ったとしても、彼を最も愛するひとりの女性の「希望」を奪うのだとしたら、そこにどれだけの価値があるだろう。


それにそもそも「世界を救う」ことは可能なのか。

スパイダーマンであれバットマンであれ、あらゆる場所に遍在することはできず、すべての不幸に立ち会うことはできない。彼らはいつも誰かが不幸になった後に現れ、決してすべての人を救うことはないまま去っていく。

映画はそれで終わるかもしれないが、人生は続き、世界は終わらない。そしてまた別の不幸が人々を襲う。もしかしたら、スパイダーマンの手によって不幸から救い出された人が、まさにそのことによって別の不幸に追い込まれてしまうことだってあるだろう。中国の古い諺が示すとおりに。


世界を救うこと。誰かを救うこと。そのいずれもが結局は人間の思い上がりでしかないのかもしれない。

しかし、何かを「救える」と信じる人はそう考えない。「Y」の男はまさにそういう男であり、だから自分の意志が予想外の現実を生んだことを知ったとき、彼はもう一度やり直すことを選択する。

そうして彼は永遠に循環する時間の輪の中に閉じ込められていくのだ。



それにしても、この物語を読み終えたとき、そこにはなにか不思議な読後感が残る。

男に関するかぎり救いのない物語であるにも関わらず、また主人公にとっては家庭の崩壊という重い現実を背景に置いたストーリーであるにも関わらず、それはどこか気持ちのいい読後感だ。

それは、男が恋人や友人や家族を愛し、その関係をたいせつにしようとしたその愛し方が男以外の人々に伝わっていくからだろうか。佐藤正午作品の例にもれずどこか投げやりで、グズグズな人生を送っている主人公も、いくつかのあたらしい関係を手掛かりにして最後にようやく前を向いて歩きだす、その結末が希望を感じさせるからだろうか。


男が書き残していった物語、それが真実だったのかどうかは最後までわからない。それでも、そこに描かれた別の時間軸の物語を読み、そこに描かれたいくつかの愛の物語を体験することによって、現在の(そして唯一の)この時間軸での人生にも可能性があることに彼は気づく。そして、そこで出会った人々が実はかけがえのない人々であることに気づく。

それは、時間という超えることのできない壁を意識するとき、なおさら強くぼくたちの意識に訴えかけてくるのだ。だからこそ彼は、現在のこの人生を引き受けてあらためて生きていこうと考えるのだろう。


そうしてみると、去っていった男はやはり(自らは救われないまま)親友を救ったのかもしれない。もちろんそれは意志ではなく、したがって選択でもない。彼が人々を愛したその愛し方を通じて、彼は親友を救ったのだ。


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