2009年11月5日木曜日

ジャンプ(佐藤正午)

明日の朝食に食べるリンゴを買いに、「5分で戻るわ」と出かけた彼女は、それっきり帰ってこなかった。

ジャンプ (光文社文庫)ジャンプ (光文社文庫)
佐藤 正午

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物語はそんな推理小説風の導入で幕を開ける。

やがて現れる彼女の姉だという人物とコンビを組んで、主人公による探偵ばりの探索行がはじまる。彼らはあちこちと聞き込みを行い、しだいに彼女の足取りが明らかになっていく、かに見える。

しかしある時から、一緒に彼女を探していたはずの(彼女の)姉や友人たちが彼を避けるようになる。問いかけても話をはぐらかされるばかり。ちょうどアイリッシュの「消えた花嫁」の主人公のように、彼以外の全員が答えを知っていて彼だけが蚊帳の外に置かれているみたいに。


そのまま事態は迷宮入りし、5年の月日が過ぎる。そして、答えはある日思いもかけないところでやってくる。思いもかけないかたちで。

それは、それまでの物語の意味を一瞬にして変えてしまう真実だった。まるでクリスティのミステリーで、犯人は語り手の主人公その人だった、とわかったときみたいに読者は思わずページを繰り、過去の記述を読み返さずにはいられないだろう。主人公とともに。


だが、そののち真実はしずかに心に着床しはじめる。

5年の歳月が、別の意味をもって彼の心に降りてくる。


それにしても、その答えを主人公は聞くべきだったのだろうか。

彼の人生を一変させてしまうその答えを。


「知らなければ、知ろうとしなければそれですんだのに」と人は思うかもしれない。

そう言えば、同じ作者の小説「Y」でも、主人公は何かに衝き動かされるように突き進んだ結果、意外な真相を知る。やはり彼にとっての世界がひっくり返るような事実を。

だが、いずれの主人公もたぶんそのことを後悔はしていない。彼らは真相を知り、その意味を悟ったとき、それでもそこから新しくはじまる世界を引き受ける決心をする。

Y (ハルキ文庫)Y (ハルキ文庫)
佐藤 正午

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彼らはきっと長い夢を見ていたのだ。

長い夢のあと人はふたたび目を醒まし、本当の人生を歩きはじめる。それは容赦ない真夏の光の降りそそぐ場所かもしれないが、それでも彼らはそこから歩きはじめる。


この物語の中でもっとも印象的なのは、小道具として登場するリンゴだ。

それはまるで主人公の分身であるかのように、物語の冒頭で彼の前から失踪し、物語の途中で消息を現したかと思うと、ラストシーンでまた忽然と現れる。

あたかも主人公のあてどない探索行の道標であるかのように、それは物語の要所要所に登場する。

しかし、まるで彼が探していた答えのように、それはずっと彼の近くにあったのだ。思いもかけないかたちで。幸福の青い鳥の物語のように、失われた彼のリンゴは、ずっと毎朝彼の冷蔵庫の中に入っていた。誰かの手によって。


物語の終幕はこんな風に描かれる。

蝉の声は途絶えることがない。何種類かの鳴き声が折り重なってひとつにまとまり鼓膜を震わせる。僕は片手にリンゴを握りしめたまま待った。真夏の光の降りそそぐ小さな駅の、人影のないプラットホームのベンチに腰かけて、いつやってくるともわからない上り電車を待ち続けた。