2014年1月6日月曜日

永遠の0(百田尚樹)

話題の映画「永遠の0(ゼロ)」を年末に観た。


顔も知らぬ零戦乗りの祖父、宮部久蔵の足跡を追う若い姉弟の探索行と、その先にしだいに浮かび上がってくる60年前のストーリーとが同時平行で進んでいく。そのエンジンとなって物語を引っ張っていくのは、宮部をめぐる幾重もの謎だ。


志願兵であったはずの宮部久蔵が、生きて妻子の許へ帰ることにこだわったのは何故だったのか。彼は噂どおりの天才的な戦闘機乗りだったのか、それとも安全圏で高みの見物をしている臆病者だったのか。そして、終戦を間近にした宮部が別人のように変わってしまったのは何故だったのか。

映画はなかなかの出来だったが、物語の焦点となっているこれらの謎について言えば、ぼくの中では幾分消化不良ぎみで残った。いずれも、ストーリーを追っていく中で一応の納得感が得られる構成にはなっているのだが…。

同じく、友人の言葉として語られる「特攻は狂信的愛国者の行いという点において自爆テロと変わらない」という問いに対しても、主人公の青年は口ごもるだけで、その答えは最後まで明確には提示されなかったように思う。

そんなもやもやを頭の片隅に残したまま家に帰ると、ちょうどクリスマスに息子に贈った原作本が手つかずで放置されていたので(笑)、2日かけて読み切った。

永遠の0 (講談社文庫)永遠の0 (講談社文庫)
百田 尚樹

講談社 2009-07-15
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読み終わって思うに、やはり文庫版で600頁におよぶ小説を映像化するには相当の苦労があったのだろう。

映画は構成やストーリーを原作とほぼ変わらないかたちで踏まえつつ、映像作品として高い完成度を実現している。しかし、その代償として、脚本家は原作に含まれる多くの要素をばっさりカットせざるを得なかった。それは映画を映画として成立させるためにはやむをえない決断だったが、同時に謎解きへの回答を中途半端なものにしてしまったかもしれない。

作者は自らが仕掛けた謎に、原作の中でただ回答を与えているだけではない。むしろそれらの謎を提示することによって、より深い問題の中へと読者を引っ張っていく。

その根本は、何が(だれが)彼らを死に追いやったのか、ということだ。その答えは、映画を見るかぎりでは、すべてが「戦争」という概念に抽象化されてしまう危険があるが、原作はむしろ「戦争」を構成する重層的な現実について語ろうとしている。

なぜ彼らは死んでいかなければならなかったのか、死を前にした彼らの思いはどこにあったのか、また戦争が終わったとき生きて帰った兵士たちを待っていたのは何だったのか。

誤解を恐れずに言うなら、問題は「戦争」ではない。戦争は言わばひとつの状況に過ぎず、作者が問題にしたかったのは、その状況を構成するさまざまな人々の振る舞いの方であったのだ。

戦場で戦った兵士たちの背後には、一方に故郷で彼らを待つ人々がおり、帰ってきた兵士たちを、また帰らなかった兵士たちをさまざまに迎える人々がいる。他方に、安全な場所にいて権力を行使する人々がおり、同じく安全な場所にいてそれを煽る人々がいる。それに盲従する人々もいる。

だが、それらは実は別々の人々ではないのかもしれない。そこでは、いわゆる権力の有無はもはや関係がなく、右や左も関係がない。ミシェル・フーコーの言うようにミクロの暴力について語るなら、日常の中で誰もが権力者になり得るからだ。

そのあたりのことは、やはり原作を読まなければ伝わらないかもしれない。

 
 

一方、映画だけが描き得たものもある。

戦場での宮部の姿を知る生き証人を求めて、主人公の青年はある老人の家を訪ねる。その老人とは田中泯扮する任侠の徒なのだが、彼の話を聞くうち雨が降りはじめる。老人が立ち上がり、庭に向かう戸を開け放つ。雨は激しく庭の木を濡らす。

その雨が、老人の心象とどう呼応しているのかはさだかではないし、むしろ演出的には、ただ次に訪れるある驚愕の事実への布石にすぎなかったのかもしれない。だが雨は、絶望か、または何かへの怒りであるかのように土を叩く。

それは、この映画 の中でもっとも印象に残る場面だ。

 
 

そして、蒼空。

雲の上を飛ぶ零戦の戦闘シーンは、常に蒼空をバックにしている。当たり前のことゆえに、原作には一切そのことに関する言及がなく、それゆえにぼくたちの(ぼくの?)想像力では蒼空が浮かんでこない。

だが、そこで繰り広げられる闘いが凄惨なものであればあるほど、映画が描き出す空の蒼はことさらにまっすぐにぼくたちの心に届く。

人間のあらゆる営みを、その生き死にさえも超越して、空は蒼く、陽光は明るく降り注ぐ。救いのように、それでいて耐えがたい哀しみのように。

いずれにせよ、それを語る、今はもう老人となった生き証人たち(癌を患って余命いくばくもない者もいる)の脳裏には、生死をかけて飛んだあの日のあの蒼空が焼きついているにちがいない。

 


ところで、人はこの小説(映画)を戦争小説(映画)と呼ぶのだろうか。ある作家の口を借りて右翼エンタメと呼んだメディアもあった(その新聞社が製作委員会に名を連ねているのは不思議なことだが・・・)。

右翼エンタメとは愛国心をくすぐる作品のことらしい。愛国心と言えば、はたしてこの映画を見る人は、ラストシーンで米空母に単機突っ込んでいく宮部の零戦に「当たれ」と祈るのだろうか。その思いを遂げることがハッピーエンドなのか、遂げないことがハッピーエンドなのか。そもそもその思いとはいったい何なのか。

少なくとも、その問いをただひとつの答えに収斂させることのできる者がこの世界にいるとはぼくは思わない。