2006年2月24日金曜日

クオリア降臨(茂木健一郎)

クオリア降臨クオリア降臨
茂木 健一郎

文藝春秋 2005-11-25
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茂木健一郎「クオリア降臨」の一節、

世界の歴史を振り返ってみれば、そこに現れるのは数限りない悲惨であり、不運であり、断腸である。…(中略)およそこの世に生を受けた人間には、世界のありさまを直視しようという姿勢がある限り、もののあはれを感ずる心がある限り、時に「天道是か非か」とため息をつきたくなる瞬間が訪れる。文学とは、そのようなため息の芸術である。

この言葉を読んで最初に思い浮かべたのは、ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」の最後の一節だった。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン・クンデラ 千野 栄一

集英社 1998-11-20
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その悲しみは、われわれが最後の駅にいることを意味した。その幸福はわれわれが一緒にいることを意味した。悲しみは形態であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも満たした。

「存在の…」の主人公トマシュは、女たらしのエリート脳外科医だ。彼は、純朴な田舎娘テレーザと結婚しながら、愛人の画家サビーナとの交際も続けている。テレーザはそのことに気づいていて、そのために毎晩のように悪夢に悩まされている。


物語の背景は1968年のチェコ。プラハの春の年だ。

祝祭の季節はやがてソ連軍の侵攻に打ち破られ、二人はスイスに逃れる。しかし、そこでも続くトマシュとサビーナの逢引き。

テレーザは独り鉄のカーテンの向こうに戻り、しばしの逡巡の後にトマシュも彼女の後を追う。彼のパスポートは国境で剥奪される。


やがてトマシュは、春の時代に書いた反ソ的な論文のせいで職を追われ、窓の掃除人へ、さらに田舎の雇われトラック運転手へと落ちていく。テレーザとともに。

その最後の場所で、作者の口から呟かれたのが、上の言葉だった。


トマシュの三角関係について言えば、もとよりぼくは彼の肩を持つつもりはない。女たらしのトマシュのように生きたいとも、もちろん思わない。

文学は理想を描く道具ではない。好きかどうかはともかく、そういう人物を友人に持ったとしたら?ぼくたちはどんな風に、彼の人生を見守るだろうか?(実際ミラン・クンデラはこの話を友人のこととして語り起こしている)


どこにでもいる男とどこにでもいる女の話という訳ではない。どうしようもなく女好きな男と、どうしようもなく彼を愛してしまった女の、これは一回限りの物語といっていい。時代の動乱は、その一回性のイメージを増幅するために描かれているのだろう。


そこにあるのは、心情への共感ではないだろう。普遍性ではなく個体性、理屈で割りきれない特殊性の物語がそこにはある。

それは、冒頭に引いた茂木健一郎の言葉にある「ため息」の瞬間と言うべきかも知れない。


「クオリア降臨」には、先の一節の後に皇帝ペンギンの物語が置かれている。

引用をはじめると長いのでここでは割愛するが、ぜひ読んでほしい。そこにも普遍性と個体性の問題が語られている。

統計処理可能な普遍性ではなく、そこからこぼれ落ちてしまう個体性への愛着が語られている。